秋葉原の片隅にある、1857年(安政4年)創建「講武稲荷神社」。芸妓さんも詣でたに違いないその歴史と未来。

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秋葉原の片隅にあるポツンと佇むその小さなお社。それは江戸時代から続くこの地域の歴史を背負ってきた神社です。2018年現在、隣接する土地や周辺が再開発の真っ只中にある、そんな「講武稲荷神社」のお話です。


昌平橋の北側あたりは、その昔、旅籠町(はたごちょう)と呼ばれ、旅籠が軒を連ねる宿場町でした。将軍が日光東照宮を訪れるために必ず通る日光街道や、東海道にも繫る街道の要所でした。その中で、神田明神下と今でも呼ばれる一帯は当時は芸者や料亭の集まる花街でした。

その土地は、幕府講武所付町屋敷(ばくふこうぶしょづきまちやしき)と呼ばれる、幕府の講武所に付属するものでした。

講武所とは、1853年(嘉永6年)のペリー来航をきっかけにした国防の気運の高まりで作られた、様々な武術を教える幕府直轄の武道場ですが、当時の幕府の財政はひっ迫したもので、講武所を維持する経費にも困っていました。

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そこで講武所付属のこの一帯を花街に貸して、その維持費を賄うことにしたのです。かくして、この神田明神下の芸者は「講武所芸者」と呼ばれるようになったのです。


そんな幕府直轄のこの土地を、大貫伝兵衛(おおぬきでんべえ)と言う人物が、幕府に払い下げてもらえるよう出願します。無事に許可してもらえるように浅草橋場の長昌寺にあった稲荷社に祈願したところ願いが叶い、この一帯は伝兵衛のものに。祈願していた稲荷社を1857年(安政4年)に、ここに遷座し「講武稲荷神社」として創建したのです。


その後の1882年(明治15年)には、神社を町内でお祀りするようになります。そして関東大震災の被災によって現在地に移り、1980年(昭和55年)には改装されて今に至ります。神田旅籠町会が管理し、社殿の下は防災備蓄倉庫になっています。


隣接する土地と周辺の再開発が「講武稲荷神社」の行く末にどんな影響を与えるのか、ちょっと心配になりますが、実はこの再開発は住友不動産が進めている「外神田一丁目計画」と呼ばれるプロジェクトで、そこにはちゃんと「講武稲荷神社」が存在し空間的な繋がりを考慮する計画になっています。

賑わいを創るだけじゃなく、防災に強い街を形成するのがコンセプト。オフィス棟と商業棟の二棟に、マンホールトイレのある広場やポケットパーク、帰宅困難者の受け入れスペース、防災備蓄倉庫も作られます。


芸妓さんも詣でたに違いない講武稲荷神社の歴史が、火伏せや防災という大きな力になって、未来に引き継がれていく様は、想像しただけで期待に心踊ります。

講武稲荷神社
〒101-0021 東京都千代田区外神田1丁目9−2

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